ちょっとだけ、という言葉の使い勝手のよさには他の追随を許さないものがある。
街角で初めて話す女の子には「ちょっとだけお茶していかない?」だし、2人で抜け出した飲み会の帰りには「ちょっとだけ歩かない?」だし、好機と見るや「ちょっとウチに寄ってかない?」などとのたまい、挙げ句の果てには「ちょっと挿れるだけだから」である。最後のせりふはともかく、僕のように物事をはっきり言えない男はとかく「ちょっと」に頼りがちだ。
僕が蛹(よう)さんを初めて食事に誘うことができたのも、何を隠そう「ちょっと」のおかげだった。
蛹さんは以前に大学で僕と同じ英語のクラスに在籍していた女性だ。といっても、留年生の僕はその授業を再履修で受講していたので彼女とは学部も学年も全く異なる。彼女は人文学部の1年生であった。
ふつうの人たちにはあまり馴染みのない話かもしれないが、留年生というのはなかなか辛い稼業である。僕のように新入生の英語の講義を再履修になってしまうと、学部も年齢も全く違うフレッシュな1年生たちに混ざって、英会話やら何やらをやらされるはめになる。自分が浮いてしまうことが判っている空間に週2で通うのはかなり苦痛である。その上、ペアを作らなければいけないタイプの授業ーー悲しいことに、大学での英語の講義は多くの時間がこのタイプにあたるーーでは、恐縮ながら講師のマーク先生を毎度悩ませる運びとなってしまう。「いつも端っこに一人でいるアイツは一体誰と組ませればいいんだ?」
ただ、その年のミスターマークの講義における僕はツイていた。僕の他にもう一人浮いているひとがいたのだ。それが蛹さんだった。
最初に彼女を一目見て、「背が低そうなこと以外にはさして特徴がなさそうに見えるが、この人はなにか異質な雰囲気を静かに発している。」という感想を僕は抱いた。よく見ると、一重で切れ長の瞳はぱっちりとしていて、アジアンビューティーと表現してもよいのかもしれなかったが、蛹さんの発するオーラは必ずしもその目力(めぢから)によるものではないように思えた。譬えるなら、授業中ーーもちろん大学のものではなく、中学もしくは高校の教室でのそれだーーに、こっそり、しかしそれでいて堂々と読書にふけっている女子学生といえば過不足ないだろうか。やや色白の控えめな表情の中に僕は、隠れた不安と隠しきれない反骨の気配を読み取ることができた。端的に言ってしまえば、「話しかけるなオーラ」をびんびんに発していた彼女はそうあるべくして浮いた存在になっていた、といったところであろうか。
まあ、そんなことを考えながら、同じく浮いていたぼっちの僕は、別段そう望んだわけでもなく自然と蛹さんの隣席ポジションを獲得するに至ったのだった。
元来慎ましい性格の僕は、蛹さんとはあくまでも「不本意ながら組んでしまっている同士」の距離感を保とうと考えた。いつも隣席に座る僕に対しては視線で会釈を(もちろん、この解釈には僕の願望が混じっていたことは否定できない)してはくれるものの、蛹さんの発する独特のピリついた雰囲気は僕を含めた全方位に向けられており、前期が終盤に差し掛かる頃になっても僕は講義に必要な英会話以外のコミュニケーションを彼女ととろうという気にはならなかった。英会話をしている際も、彼女が儀礼的な笑み以上の表情を見せることは基本的になかったし、僕や英会話の内容に関する興味を見せたことは一度もなかった。キモチワルイ人だと思われたくはなかったので、僕もなるべく英会話をしている時以外には彼女の方を見ないように努め、文字通り敬して遠ざけることを旨とした。
彼女に話しかけてみたい気持ちはあったが、調子に乗って話しかけて手ひどい拒絶を受けたりするのは嫌だったし、そうなってしまった日には、僕のメンタルは今度こそ崩壊して、登校拒否になってしまうのは必至だった。ちょっとのことでついつい心が折れてしまう留年生にとってはそれはリスキーな賭けであった。
それが前期の13週目か14週目のどちらだったかは判然としないが、その日の講義でもやはり英会話の真似事をペアでしなくてはならないことになり、僕は蛹さんと話すことになった。
テーマは「最近困っていること」だった。
この時、初夏のブタクサの花粉に悩まされていた僕は、
「最近ブタクサーー英訳が判らずpig grassと言ったら、彼女は珍しく儀礼的ではない笑顔を見せたーーの花粉に悩まされているが、大体の人の花粉症は春に終わっているのであまり理解されず、かなしい」というようなことを英語で述べた。
「それはかわいそうに。今日の調子はいかが?」と彼女がそれらしき英語で返したので、僕が「今日は薬を飲んだので大丈夫だけれど、昨日はすごく鼻水が出て(I had a runny nose)困った」と述べたところ、彼女は「ん?」という顔をした。
「えっと、runny nose って何?…あ、いや、なんですか?」彼女は日本語で尋ねてきた。「runny nose とは鼻水が出ているという意味で、ネイティブはもっぱらこの表現を用いる。」と僕は(もちろん日本語で)答えたら、彼女はなぜか吹き出した。「どうしてそんなに自信満々なの?pig grassとか言っていたくせに!」
僕はやや憤慨したが、じっさい僕の英語力は日本英語検定協会が認定するところの3級レベルであるのは間違いなかったので素直に認めることにした。「いや、実は昨日読んだ雑学の本に書いてあっただけなんだよ。」「なんだ、やっぱり。そんなところだろうと思った。」
当然なのか意外なのかは解らないが、これが蛹さんとの初めての日本語での会話であった。
そして、この記念すべき会話は講師のマーク先生によって遮られた。「Hey,don’t speak Japanese!」ミスターマークは続けて、二人とも期末テストから10点マイナスだからね!というようなことを言った。
「嘘だろ…」のジェスチャーをした男子留年生の隣で、少女は「C’est la vie.」と小声で呟いた。
講義が終わった後、講義室を出た僕たちは廊下で初めて簡単な雑談を交わした。
去り際に、ふと思い立った僕は冒険してみることにした。
「僕のせいであなたの10点が犠牲になってしまったわけだし、何かおごらせてくれませんか?お詫びに。」
「えー。10点でしょう。ジュースなんかじゃあごまかされませんよ?何か美味しいものだったら考えてもいいけれど。」
「じゃあ、ちょっとだけ美味しいご飯を食べに行きましょうか。」
「ちょっとだけなんだ!」
彼女は笑ってOKしてくれた。
約束した週末までの間、僕は彼女と何を食べに行くかについて少し頭を悩ませたが、結局、元同級生の友人たちとたまに行く郊外のスープカレー屋まで足を延ばすことにした。
僕は特段スープカレーについて何か一家言を持っているわけではないのだが、この店のそれがかなり美味しいことは間違いない。スパイスのきいたスープに産地直送の野菜や肉を盛り込んだスープカレーの味は無類で、洋風の民家をリノベーションしたらしい洒落た店構えも手伝ってか、客足が途切れないのが常である。市街地から車を30分ほど運転しないと行けない場所にあるにも関わらず、僕も月に1回くらいは友人とこの店を訪れることにしていた。
僕たちが向かったその日もやはり、店の外でしばらく待たねばならないほど盛況だった。他の客たちーー男女連れが多かったーーがしているように、僕たちも話しながら時間を潰すことにした。
その日の彼女は普段教室で見るよりいくぶんかおしゃれであったように思う。
大学で見る彼女は一言でいうなら地味めの女子大生、と言った格好をしていることが多かったが、この時の服装はどちらかというと派手めであった。
ぱっと見、サテン地のパープルのスカートが目を引いたが、それ以外のトップス、パンプス、そしてハンドバッグは全て落ち着いた白で固めており、全体的に見ると派手な中にも上品な印象を覚えた。そういった方面に疎い僕にも蛹さんのおしゃれさを伺うことができたし、彼女の服装に感心してじっくり眺めてしまった。そしてスープカレー屋を選んだことを少し後悔した。
そんな僕の様子を見てどう蛹さんがどう思ったかは判らないが、彼女は饒舌だった。
蛹さんの名前が「さなぎ」の蛹であることを僕はその時初めて知った。名前だけでなく、全国3000位台の珍しい苗字もあいまってとても気に入っていること、そして身長は143センチメートルだが自分は若く、まだまだ伸び代があることなどを彼女は楽しそうに語った。全国50位台の苗字に平凡な名前、そして178センチメートルの身長を持つ自分とはまるで対照的だと僕が言うと、彼女はくすくすと笑った。
「でも、なんだか意外ですね」僕は、ややあらたまった口調で言った。「私は誰とも話したくないの、みたいな人かと思ってましたよ。」
彼女は微笑んだ後、真面目な口調で答えた。
「そう見えるなら、そう見せているだけですよ。お高くとまってるつもりはないのだけれど、大学ってヘンな人が気安く話しかけてくるじゃない?そういうのは、私には必要ないの。」
「なるほど。」
「そんなことより、私だって意外だったんですよ。」
「え。何がです。」
予想外の返答に僕は少し驚いた。蛹さんは上目遣いで僕を見ながら続けた。
「だって、私には興味ありませんみたいな顔をずーっとしときながら、こうしてちゃっかり食事に誘ってきているじゃないですか。」
そう言って僕を見上げる蛹さんを少し見ているうちに、僕は高めのヒールを履いた彼女が少し背伸びをしていることに気がついた。
僕が何か言おうとしたところで、店から出てきた店員が僕たちを呼んだ。
僕たちはようやくスープカレー屋に入ることができた。
僕はローストチキンが入ったスープカレーを選び、蛹さんは野菜ときのこが入ったスープカレーを選んだ。
辛さを選ぶ段になって、辛いものが苦手な僕は「0辛(お子様にオススメ)」を注文した。それを見た彼女は笑いながら「4辛(自信がついてきたあなたに)」を頼んだ。
辛いのが得意ってわけではないのだけれど、と彼女は言った。
「こういうのを見ると、挑戦したくなっちゃわない?」
結局のところ、4辛は彼女にはオーバーワークのようであった。
「思っていたより全然辛い!でもおいしい。」
「それなら良かった。」
「挑戦は失敗だったかもだけれどね。これはまだ、私には危険な辛さです。」
食べ進めるにつれて徐々に、慎重に観察しなければ気づかない程度に蛹さんは汗ばんでいった。僕はその様子を見逃さないようにしつつ、自分のスープカレーに取り組むことにした。
お子様向けに安全に調合されたスパイスを味わいながら僕はしばし思索にふけった。
何にでも挑戦してみたくなるというのはとても健全で、また実は真似をするのが難しい考え方であるように思える。失敗しても何とかなるという環境が前提にないと、何においてもなかなか挑戦はできない。そういった意味では、失敗してもどうにかなる状況というものが年々少なくなっているのを実感している僕にとっては羨ましくもあり、また自分にはもともと不可能な考え方であるようにも感ずる。「お前の道を進め、人には勝手なことを言わせておけ。」という意味の言葉を残したのはダンテだが、そういった態度が許されるのはやはり当人が何か非凡なものを持っている場合に限られるのは自明だ。
また一方で、何かに挑戦しようという試みは安易に行いすぎると、その行為自体の真剣さや、突き詰めると対象への敬意を大きく欠いてしまう。当たり前のことではあるが、このことに無頓着な人は多いように常々感ずる。必然、挑戦するという行為を真に行うには、まず自分が何者なのかということの認識、そしてそれに基づいた慎み深さが要求されるとは言えまいか。
「あのう。」
蛹さんの一言で僕は現実に引き戻された。
「さっきから虚空を見つめていますけれど、どうかしました?」
すでにカレーを食べ終えた彼女は、不思議そうにこちらを見ていた。
「いや、少しぼーっとしていました。」
「ふふ、結構よくぼーっとしていますよね。」
僕と接する女性はなぜかこうした感想を抱きがちである。
「カレーはおいしかった?」
「ええ。いいお店を知ってるんですね!」
「この辺りに住んでいる期間がちょっと長いだけですよ。」僕は苦笑した。
車に乗り込み、僕らは帰路についた。
今期の取得単位に関する展望などをお互い述べているうちに、やがて僕たちの車は市内に入った。
「でも、量は足りなかったよね。」助手席の蛹さんがおもむろに言った。
「確かに、凝っているぶん量は少なめだね。女性にはちょうどいいくらいかと思ったけれど、足りなかったですかね?」
「うーん、そんなところかな。」彼女は笑った。
「それより、さっきはぼーっとしながら何を考えていたんですか?」
「ふむ。」
女性に向かってくどくどと持論を展開するのは僕の好むところではないので、別の話題でごまかすことにした。
「蛹さんの今日の格好は素敵だなって思っていたんですよ。」
「本当?」
「本当だよ。蛹さんはキレイだからどんな服装でも似合うと思うけれど、センスがいいなあと。」
「お世辞でしょう。本当は何を考えていたのかなー。」
「いやいや。あと、これからどうしようかと思って。」
言ってしまってから、これは言うべきではなかったなと思った。ご飯を食べ終えたのだから、帰る以外に選択肢はないではないか。こういう時にすっと帰らず、ダラダラと一緒にいる時間を伸ばしたがる男はモテないものと相場は決まっている。
僕らの車は大学まで後5、6分というところまで来ていたが、この時ちょうど赤信号に引っかかった。
少しだけ間があった後、彼女は尋ねた。
「これから…あなたはどうしたいの?」
今までの数々の悲しい思い出が僕の脳裏をよぎった。
「僕は……。もうちょっとだけ、蛹さんと一緒にいたいな。」
蛹さんを見ると、解ってたよ、という表情で微笑んだ。
「いいですよ。」
でもね、と彼女は続けた。挑戦的な上目遣いをして、僕の眼をじっと見つめた。
「ちょっとだけっていうのは、うそでしょう?」
キスをした後、この人とは長い付き合いになるだろうなと思った。