遠景、近景
車のフロントガラスは一部が凍りついていて、解氷も含めて暖機するのに十分弱を要した。真冬の深夜とはいえ凍結はしていないだろうとたかをくくっていたのが仇となった。デフロスターが効いてくるまでの数分間ただぼんやりしているのも悪くはないのだが、今日は助手席に女がいたのでそういうわけにもいかなかった。
「解氷スプレーとか、氷を削るスクレーパーはないの?」
女は訊ねた。
男はそうしたものを備え付けておくのを面倒臭いと感じるたちだった。毎度暖機をしている間こそ次までに装備を買い揃えておこうと思うのだが、結局のところ、少し家を出るのを早めればいいだけの話だと考えて億劫になってしまうのだった。
以前付き合っていた女にも同じように文句を言われたことがあったな、と男は思った。
数時間前、男は自室のソファに座りながら女とテレビを見ていた。クイズ番組で、高学歴の大学生とテレビタレントがチームに分かれて戦うというものだった。
日本語や歴史の知識に関する問題の多くは男が知っているものだった。
男が自分にわかる問題の答えをうっかり言ってしまうと、女は感心した様子だった。だが、その次の問題から逐一男の予想を尋ねてくるようになり辟易した。
しばらくして出題のジャンルが変わり、ひらめきを必要とする問題や芸能に関する問題になると男にはほとんどと言っていいほどわからなかった。対照的に女はこうした問題はすぐに判ってしまう様子だった。元来、何かをひらめくといった能力が自分には著しく欠けているきらいがある。そう思いながら男は嬉しそうに話す女の説明を聞いていた。
番組を見終えると、男は女と一度交わった。
ベッドでぼんやりしていると、隣でスマートホンの画面を見ていた女が、
「今から流星群を見に行こう!今日見られるなんて知らなかった」
と言った。薄暗い部屋の中、画面の光に照らされた女の顔は青白く、それでいてはつらつとして見えた。
男はわずかに疲労を感じてはいたが、日ごろ女のこうした思いつきに従うことが嫌いではなかった。
布団から脱皮した二人はそれぞれ厚手のコートを着込んだ。
走り始めると車内は暖かかった。街外れの峠道を越し、目的地への道のりを半分も過ぎた頃には、始め冷え切っていたハンドルも気にならなくなっていた。
切り通しを抜け、突き当たった国道を北上し、橋の東詰で左へ折れる。
この橋は晴れた昼間であれば、北アルプスを真正面に臨みながら犀川を渡り安曇野の田園へ一気に下っていくという道だ。もちろん深夜ではそのような景色は叶わず、代わりに街路灯の無数のオレンジが闇中にぼんやり立ち並んでいるばかりだった。カーブに沿ってくねる淡い光の列に、男は何か艶かしさのようなものを感じた。夜、一人で高速道路を走ると似たような気持ちになることを思い出していた。
ろうそくみたいで幻想的ね、と女は言った。
田園地帯を突っ切ると、道は高瀬川沿いにやはり北へと進路を変える。先ほどとは違い一直線のこの道には街路灯はほとんどなく、自分のヘッドライトがないと先の様子が掴めないほど闇が濃い。心細く感じたのか、女の口数は自然と増えた。
女は哲学的な話題を好んだ。
最近の関心事は「絶対無」というものについてであるらしく女は一通りの解説をしてくれたが、その講義は男にとって解ったような解らないようなぼんやりとした印象だった。
曰く、われわれ人はいろいろな側面(”述語”と表現するらしい)が寄せ集まった実体を欠いた主語の一つであり、それら全ての”述語”を内包した無限大の述語の空間—それこそが”絶対無の場所”らしい—を体験することができれば、人は自分の真の在り方を理解だか自覚だかできるというのだ。
「どう思う?」
説明し終わると、女はひどくざっくりとした問いを向けた。
「少し宗教っぽいのはともかく、もっともらしいような気もするし、当たり前のことを難しく言っているだけのような気もする」
「ほうほう、それで?」
「でも、もちろん僕にも自分の真の在り方というものが解っていない以上、その境地に至るためにいろいろなことを見知ることが必要だというのはなんとなく同意できるよ」
「なんだか、すごく簡単にまとめたわね。自己啓発本みたいでそれはそれで判りやすいのだけど」
納得したのかどうか判らなかったが、女はしばらく黙り込んだ。
男は、そのような境地に至ることが重要なのかどうかを疑問に感じていたが、女には言わなかった。
絶対無の境地に至って「自分の真の在り方が解った」人は、はたして死にたくはならないのだろうか?
そして仮に死にたくなるのだとしたら、その感情の大元は僕が日頃世の中に感じているこの無力感とどこか違うのだろうか?
無言で運転している間に、車は公園近くのコンビニに着いていた。男と女はそれぞれカイロと缶コーヒーを買った。
コンビニを出て、県道から一本細い道に入る。山肌にそのまま道路を置きました、とでもいうべき急坂を一二分登ってゆくと案外すぐに公園の駐車場が見えてくる。
安曇野の平野を挟んで北アルプスに面した山の斜面をそのまま利用した構造になっているこの公園は、昼間なら山景をカメラに収めるのにうってつけの場所でもあるし、夜は遮蔽物のない斜面にそのまま寝転んで一面の星空を見上げるのに適している。昔社会科で習った「扇状地」を思い起こせばいいだろうか、全体に芝生が張られた扇状地のその麓の部分に駐車場はあった。
車を降りた男と女は、下界の景色を背になだらかな扇状地を登っていった。
なだらかとはいえ多少息が切れる程度の傾斜ではあったが、女は話を続けた。
「さっきの話じゃないけど、いろいろな知識を持っている人ってやっぱり尊敬する。今日のクイズ番組を見てると私もたくさん勉強しておいたらよかったのになあって思う。あなただってそうだけど、ああいう風になんでも聞かれたことを答えられると気持ちいいんだろうなって」
「知識を持っていることってそんなに重要かな」
男は質問した。
「どうして。そんなの当たり前のことじゃないの?」
運転の疲れもあったが、男はまとまった反論を試みることにした。
だいたい、相手の知らない知識を披露すると言う行為がそもそもあまり好きじゃないんだ/どうして/知っているというただそれだけで偉そうにしているように僕には思えるから/でも実際、自分の知らないことを知ってる人って偉いと思うし、尊敬してしまうのだけど/そんなことはないし、尊敬するようなことでもないよ/どうして/実際のところ、調べてわからないことなんてそうそうないだろう/それはそうだけど/例えばさっきのクイズ番組に出てきた知識を得るために僕がかけた一定の時間、君は確実に何か別のことをしていたはずだ/話が見えないのだけれど/僕と君とは1歳差だが、判り易くそれを無視していいなら僕たちは今までにおおむね同じだけの時間を過ごしてきたということになる/時間は全ての人に平等に流れる/その通り、そして僕が知識を得るのに用いた時間、君は何か君にとって意味のある別のことをしていたと見て基本的に差し支えはない/時間の使い方が違うだけだと言いたいのね/そうだ、そしてこれは一般にも同じことが言える/つまり/時間の使い方の違いが今の一瞬自分に有利に働いただけのことを、それが偉い偉くないという議論に結びつけてしまうのは、土台が相手に対する敬意を欠いていると言わざるを得ない/敬意の欠如/結局のところ、知識の多寡に重きを置くという考え方それ自体が、単純に自分を認めて欲しいという欲望の発露に過ぎないように感じる/あなたらしい考え方だね/そうかな/いつも通り、理解はできたけど、納得がまだ追いついていないもの
芝生の張られた扇状地の一番上近くまで登り切ると、二人は今まで背を向けていた景色を振り返って腰を下ろした。
夜景とまではいかないものの、眼下の平野を通る道路にまばらにある街路灯と遠くの信号機の光に彩られた暗闇は、それ自体が一種の星空のようにも思えた。たまに通る乗用車のテールライトがやけに目についた。
なんとなくそれまで見ないようにしていた頭上に目をやると、当然のように多くの星々が光っていた。都会の空ではまずありえない量の星にも近頃はそこまでの驚きを感じなくなっていた。
そのまま無言で星空を眺めていたが、流星群の気配はなかった。
何分経ったか判らなくなってきた頃、女が口を開いた。
でもね、私の知らないことを色々知っているあなたは、本当に素敵だと思うよ。女は言った。
思わず男は女の方を向いた。女は男の顔をじっと見ていた。
そういうことではないのだ。
男は無言のまま憤った。先ほどの話を聞いた上でどうして女がそのようなことを言うのか男には理解できなかったし、もどかしくもあった。だが同時に、女が事の本質を理解していないことに安心している自分にも気付いていた。
絶対無の場所というものが本当にあったとしても、そこでも女はやはり同じようなことを言うのだろうなという気がした。
結局のところ、流星は流れない様子だった。
炯眼と慧眼(1)
「現実離れ」という言葉に疑念を覚えて久しい。
言うまでもないことだが、ふとしたはずみにーーなんだっていい、特定の人物についての考察、パーキングエリアの暗闇、人ごみの中の自分、枚挙に暇がないーー私から離れていってしまうのはいつだって現実の方だし、私が進んで現実を離れようとしたことは一度もない。
理想や仮想や空想がいつの間にか手に届かないところに霧消してしまうのと同じ仕組みで、現実も私たちの手に届かないところへ逃げ切ってしまう好機を常に窺っていると考えるのが妥当だ。
自宅からの近さ、雑誌の種類の豊富さ、駐車場の広さ、あるいは併設カフェの有無。
贔屓の書店に求めるものは人によって異なるだろうが、私の場合はピンポイントな品揃えの良さをこそ尊ぶ。本なら大体なんでも取り揃えているような大きな書店が生活圏の中にあるなら迷うこともないのだろうが、私の行動範囲内には残念ながらそのような大店はないので選択肢は絞られてしまう。
個人的なオールタイムベストと言っていい好みの文庫本は数冊あるが、その内のさらにベスト、お気に入り中のお気に入りの小説の文庫が置いてあるかどうか、それこそ私が書店選びにおいて最重要視するポイントである。
どれくらいお気に入りかと言うと、私は人からオススメの本を尋ねられた時は必ずその本を挙げるし、手元に1冊持っているタイミングであれば積極的に貸し出すことにしているくらいだ。しかし残念なことに、この世に貸した本ほど戻ってこないものはそうそうなく、加えて私には自分のお気に入りの小説をその時々の恋人に貸して読ませたがるといういささか面倒臭い習癖がある。そんな訳もあって、いつしか私は本を貸し出してある程度返ってこない場合は回収を諦め、再び自分が読みたくなった時に新たな1冊を購入する労を厭わなくなってしまった。別れた恋人に「ご機嫌いかが?ところで貸したままの本を返してくれないかしら?」という連絡をするのと、書店に出向いて数百円払うのではどちらの方が大儀であるかは自明だ。
とにかくそういった理由で、お気に入りの在庫がある書店を定期的にマークしておくということは私にとって非常に重要な意味を有する。市内にはその本を入荷している書店が現在2店舗あり、私はそのうち自宅に近い方をもっぱら利用している。
その日も大学の講義が終わった後、私は例の書店まで何とはなく歩いていって新刊本の立ち読みをしていた。唐辛子の歴史についての新書が目を引いたので、買うかどうか吟味するために最初の数ページをめくっていた。
高校生くらいまでの私は小説ばかり読んでいて、新書の類は全く読んでこなかった。カタい文章を読むのがもともと苦手だったというのもあるが、授業中の密かな愉しみのはずの読書で現代社会の問題点や応仁の乱について学ぶというのは本末転倒というか、なんだか滑稽に思えたからだ。
だが、大学に入って主な読書の場に喫茶店が加わるようになってからは新書も読むようになった。新書をナナメに読んで雑多な知識を仕入れては年下の子の前で披露する、というインプット&アウトプットーーやっていることの本質はテスト勉強とその後に控える定期試験との関係にほとんど等しいのだが、モチベーションというただ一点において大きく異なるーーの重要性を実感してからは特にであるが。
南米から世界を股にかけて広まってゆく唐辛子のことを想像しつつ、今夜は野菜炒めに唐辛子を混ぜてみようかしらんなどと考えていると、低く艶っぽい声の女性が肩越しに話しかけてきた。
「お勉強の本?偉いわね。」
急に人から話しかけられたので、思わず体がびくっと動いてしまった。ずり下がったメガネを上げつつ振り向くと、声の主は見知った人物であった。白ブラウス、紺のパンツに黒のパンプスといった出で立ちから察するに、仕事帰りといったところだろうか。紺のパンツに合わせた白のベルトは可愛くてかっこいいけれど、人を選ぶというか、年がら年中パーカーばかり着ている私には出来ない格好だ。近い将来就職したら、私もそうしたファッションに身を包んで職場に向かうこともあるのだろうか?瞬時にそこまで考えつつ、私は返事をした。
「ルルさん!久しぶり。こんなところで会うなんて珍しいですね。読書なんて柄でしたっけ?」
「読んでる漫画の最新巻が出たから買いに来たの。ケイはいつもの立ち読み?」
「ええ。この本を買おうかどうか迷っていたところ。」
ルルさんは以前、私の恋人であった。元カノと言ってもいいのだろうか。円満なのだか険悪だったのかどちらとも言えないような微妙な別れ方をしたので、大学で見かけたとしても私は気付かれないようにそっとスルーしようといつも心がけている。ルルさんは社会人だが、私の大学内のサークルに所属しているため時たま見かけることがあるのだ。明るい性格の彼女は男女交えたグループでキャンパスを歩いているから、常に一人の私が構内で話しかけるのはかなりハードルが高い。高い上に、そもそも話しかける用事もない。それでもルルさんは私を見かけるとなんやかんやと気さくに話しかけてくる。
いずれにせよ、今回こうして話すのはおそらく1ヶ月半ぶりといったところだったかなと私は自然に推算していた。
そんな私の心中はよそに、ルルさんはやはり明るい様子で続けた。
「今ヒマ?せっかくだしそこでお茶していこうよ。」
付き合っていた時分も、なにかしらのお誘いをしてくるのはいつも彼女の方からだった。
「忙しくはないですけれど・・・。ルルさん、そんなにヒマを持て余してるの?」
「何言ってるの。せっかくの機会に旧交を温めようとしてるのにー。」
旧交か。いずれにせよ、ルルさんが相当ヒマしているだろうことだけは判った。お茶するとなると、それこそ何ヶ月ぶりかわからないレベルの話だけれど、断る理由はない。別れたとはいえ私はルルさんのことが嫌いではないのだ。
「オッケー。じゃあ隣のスタバに行きましょう。」
「ありがとう!ごちそうさまです。」
どうしてそうなる。私たちは書店に隣接しているスターバックスへ向かった。
久しぶりに横に並んで歩く彼女のほのかに甘い香水は、以前と同じ香りのようでいて、どことなく違うものであるように思えた。
ルルさんはドリップコーヒー、私はいつも通りホワイトモカエクストラショットを注文した。ドリンクを受け取って席を見渡すと、ちょうどよく窓際のソファーを確保することができた。
「どうなの?最近の調子は。」
腰掛けて早々に、少し気だるい調子でルルさんは言った。
「どうもこうもないですよ。相変わらずテスト勉強して、それが終わったらまたテスト勉強、以下無限ループって感じ。ルルさんは?」
と尋ね返す。別段変わり映えのしない私の近況が知りたいわけでもなかろう。
「私はねえ。ま、仕事はともかく、それ以外は結構ヒマしてるかな。」
明るく言った風だが、ヒマという割に口調はやや重い。例の年下の彼氏とうまくいってないのかもしれない。私はカマをかけてみることにした。
「ふーん。彼氏とケンカでもしたんですか?」
ルルさんはわずかに目を見開いた。彼女の特徴の一つでもある、角度が少しきつめの眉が上がる。私は彼女の目尻のアイラインが以前に比べて5、6度下がっていることを見逃さなかった。
「え。そうだけど、どうして判ったの?そもそも今彼氏いるって知ってたっけ。」
ビンゴ。
「それくらい判りますよ。笑顔がいつもより曇っているし、そもそもルルさんが僕に『調子どう?』って訊いてくる時は大抵相談だったじゃない?特に人間関係。」
ルルさんは一瞬にやっと笑った。
もっともらしく言ったが、ルルさんの彼氏の有無くらいは私の耳に入ってきている。余談だが、男という生き物は往々にして元カノの情報を探りたがるという。そんなことは女の私には無縁の習性だと思っていたのは昔の話で、ルルさんと別れてからというもの、彼女の関係の話はついつい気になってしまう。私が思うに「元カノ」という存在それ自体が何かこう、一種の精神的セーブポイントのようなものなのかもしれない。もちろん、元彼についてこうしたことは思わない。
「よしよし、しっかり私のことを見てるんだねえ。」
感心感心、と言った様子で目を細めるルルさんに、私は少し反発を覚えた。
「見てないよ。」
「またまた。でももう正直その件については、相談するって感じではないかな。自分の中で答え出ちゃったし。」
なるほど。まあしかし、なんというか私にとっては悪い話ではない。
「それにしても、名前通りの炯眼は相変わらずだね。」
ルルさんは続ける。
「ありがとう。ひねくれてるだけだけどね。」
私の名前を漢字で書くと「炯(けい)」となる。名前負けしているという自覚はあるのだけれど、付き合っていた当初からルルさんは、私が何か的を射たことを言う度にこういって茶化すのだ。私の返答もお決まりで、これは何度も交わしたセリフだ。久々にこのやりとりをしたなあと私が懐かしんでいると、ふと何かを思い出した様子で私の元彼女は話し始めた。
「そうだ。そういえばこの間ちょっとヘンなことがあったんだけど、炯眼のケイちゃんなら何があったのか解るかなあ。」
どうもその言いようでは私が高く買われすぎているような気もするが、ひとまず話を聞いてみるか。
「ほう。どういう系の話?」
「なんていうか・・・そうね、密室破り!うちのサークルの部室に密室破りが現れたのよ。」
密室!そんな言葉を現実で聞くとは思わなかった。最近大学構内で事件があったなんて話は知らないけれど。
「密室破りだなんて穏やかじゃないね。何か物でも盗まれたの?ルルさんに危ないことはなかった?」
「ううん。心配してくれてありがとう。でもそういう話ではなくて、ただ密室を破っただけなのよ。」
ん?話がよく見えない。
「ええと、どういうことか詳しく教えてください。」
「うん。」
ルルさんは頷いた。
「ええとね。私が入ってるサークル知ってるよね。…そうそう、フットサルの方。先月の中旬くらいだったかな、とにかくどっかの週末。そのフットサルのサークルのみんなでT川の河川敷まで行ってバーベキューをしたんだけどさ。部室からアウトドア用品一式を運び出して、大学の門のところで待ってる部員たちの車にそれを乗せて現地に向かうっていう流れだったの。それでね、食材とコンロ、椅子、キャンプ用の机、その他もろもろを積み終えて、さあ出発!ってなったところで、食器を部室の中に忘れたことに誰かが気づいたんだ。後輩の男の子が一人でそれを取りに行ってきてくれたんだけど、その彼は部室の鍵を持って行かなかったんだよね。その子が食器を取りに行ってしばらくしてからみんなそのことに気づいたから、じゃあ誰かが鍵を持っていってあげようかって話をしているうちに、その男の子が食器を全部持ってきてくれたのよ。他のみんなは『部室に鍵がかかってなかったのかな?』みたいな感じで納得していたんだけど、その時最後に部室に鍵をかけたのは私だったんだ。鍵をかけたのは間違いなく覚えているから、どうにも納得いかなくて…。ケイ、その子がどうやって部室の中に入れたのか解る?」
ほう。確かに密室を破っただけだ。事件どころか、誰も損をしない完全犯罪(?)と言えるのではないか。
ともあれ、このトリック(仮)を解明するには、まず一般的に密室を破るときに考えられそうな可能性を挙げてみなくてはいけなさそうだ。正直言って、ミステリは普段あまり読まないのだけれど。
自分の脳の普段使わないところを無理やり回転させているような気分になりながら、私は考えた。
- 鍵は実は開いていた。
- 犯人(?)は鍵を持っていた。
- 室外から合い鍵を使わずに解錠した。(針や糸、細長い紐、ドライアイス、強力な磁石、etc…)
- 秘密の抜け道があった。
- 犯人は関節を外してわずかな隙間から入り込んだ。(ミステリ風に言うなら、『犯人は中国人だった』と言うやつかしら?)
- 犯人はそもそも室内に入っていなかった。
- 室内には他の人がいて、その人に鍵を開けてもらった。
…こんなところかな。
「どう?」
楽しげにルルさんが訊いてくる。
「ちょっと待ってくださいな。今から可能性を絞り込んでみるから。」
私はホワイトモカを大きく一口、ごくりと飲んだ。
まず、常識的に考えて5は除外していい。6も…話の流れとしては除外してもいいだろう。食器が部室の外にあったのならば、ルルさんを含めた誰かしらが気づいていてもおかしくない。まあ、他の可能性が全部否定されてしまったら考慮すると言うくらいにとどめよう。やはり問題となってくるのは、密室を密室たらしめているドアなのだろうか。
「部室の扉はどういうタイプなの?あと、その扉以外にも出入り口はあったりする?」
私は尋ねた。
「扉はね、なんて言ったらいいのかな?扉の板?っていうのかな、それが2つ付いていて、必要なら両開きにできるんだけどドアノブが付いているのは片方だけ。言ってみたら普通の洋風のドアだよ。ドアを開けたら人一人が通れるくらいの大きさかな。鍵は普通のキーをさして回すタイプの鍵が一つついている。」
概ねごく普通のドアと言っていいようだ。ルルさんは続ける。
「それで、他の出入り口として使えそうなのは窓くらいかな?部室は一階にあるから、鍵が開いていたら入れたと思う。」
「その時鍵は?」
「もちろん閉まってたよ。私が確認したもの。」
なるほど。戸締りをした本人が言っているんだし、やはり1の可能性も除外か。そういえば、さっき考えていなかったけれど、これも訊いておこう。
「バーベキューから帰ってきた後、その扉は壊れたりはしてなかった?」
「ううん、壊れたりしてはいなかったよ。」
破壊というセンはないと。「運動部員男子、部室の扉を力任せに突破」というオチもなかなか悪くはないと思ったのだけれど。
「一応訊くけど、床下に地下通路があったり、屋根裏から天井に通じる道があったりはしないんだよね?」
「あるわけないじゃん。ただの部室だよ?」
ルルさんは笑いながら言った。
ミステリの世界じゃあるまいし、さすがに当然か。ということはもちろん、犯人(?)が隠れるおきまりの暖炉や隠し部屋もないだろう。そもそも密室を破っただけなのだから隠れる必要もないが。ともかく、これで4も除外できる。
残った可能性は2、3、7になった。
だが、これ以上絞り込んでゆくのはここで座って考えているだけではちょっと厳しいかもしれない。やはり、ミステリ素人の私にこういう込み入った問題は荷が重かった感が否めない。これは降参するか、一縷の希望にかけて現場の視察を提案してみるか。
ホワイトモカもそろそろ残り少なくなってきた。
コーヒーを一口すすり、そろそろ頃合いかとでも言わんばかりにルルさんが訊いた。
「どう?何か解った?」
私もちょうど切り出そうかと思っていたところだ。
「うーん、何となくだけど可能性は絞れてきたってとこかな。」
「本当?じゃあ教えて。どうやって彼は部室に入ったの?」
興味深げな表情にしてしまって申し訳ないけど、そこまではわからないのだ。だが素直に言うのも癪なので、少し勿体をつけてみることにする。
「それはね、と言いたいところなんだけど。いずれにしても現場に行ってみないと。確証が得てから言いたいし。」
あ、私は部外者だし無理しなくてもいいよ、と付け加える間もなくルルさんは嬉しそうに言った。
「大丈夫よ。今日はサークルの活動日じゃないし、部室に人もあんまりいないと思う。」
やれやれ、見栄を張ってしまったが本当に謎は解けるのだろうか。
結局、ルルさんが車で大学まで連れていってくれるということになった。
空になった飲み物の容器を片付けて、私たちは駐車場へ向かった。
ルルさんの愛車は茶色のコンパクトカーである。大学へ向かう道のりの風景を眺めながら、私がこの車に乗せてもらうのも久しぶりだなあなどと考えていた。どことなく漂う気配から、彼女が最近車内でタバコを吸ったらしいことがわかった。
「久しぶりだなあって思ってるでしょ。」
助手席の私を覗き込んでくる。
運転中は前を向いてください。
夕方にしては珍しく道がすいていたので、大学へは5、6分で着いた。大学近くのコインパーキングに車を停め、グラウンドで運動部員たちが練習している声を聞きながら私たちは部室棟へと向かった。初秋とはいえ夕暮れ時になると少し肌寒く、ルルさんはいつの間にか上に紺のジャケットを羽織っていた。
それにしても、キャンプ用品やコンロが備え付けてある部室というのは普通なのだろうか。私はサークルや部活動には所属していないので全くわからないのだが、部室にはその部で使う用品ーーフットサルなら、ボールとビブス?何れにせよ私には想像がつかないーーをしまってあるだけなのではないのか。華やかなサークル活動というものとは無縁で過ごしてきたせいか、どうでもいいところに引っかかってしまった。
フットサル部の部室は部室棟の1階、軽音サークルと社会学研究サークルに挟まれる場所にあった。
部室の中には誰もいない様子だった。現場を観察するという意味でも、私の気持ち的にも幾分かラクである。万事明るく誰とでもすぐに仲良くなってしまうタイプのルルさんにはわからないことだと思うが、いくら部員を伴っているといっても自分とは関係のないサークルを訪ねて知らない人たちが多くいるところに入っていくのはかなり抵抗がある。
扉を開け、ようこそわがサークルへ、などと言う彼女に明かりをつけてもらう。思ったよりも室内は広く、おそらく10畳はないくらいか。室内にはフットサル用具ーー思った通り、たくさんボールが入った籠があったーーの他にも、先ほど教えてくれたように机、コンロなどのアウトドア用品が端の方に片付けられて置いてあり、なんとテレビとゲーム機もあった。大学のサークルの部室というのはこういう場所だったのか。なんだろう、私の日常にはない青春の匂いがする。
ともあれ、室内をさらに観察する。
ドアを開いて左右の壁は、サッカーチームのポスターが貼ってある以外は特筆すべきことはない。壁の向こうには隣のサークルの部室があるようだ。正面の壁は外に面しているらしく、胸くらいの高さに普通よく見かけるような引き違い窓がついている。一応窓の外を見てみると広場を挟んで講義棟が見えた。この時間はサークルが利用しているのだろうか、ちらほら人影も見える。だが、さっきの話では窓の鍵は閉まっていたようだから、いずれにせよここから出入りした可能性は考えなくて良さそうだ。
次に扉を見る。外開きで、引いてみるとあっさりと開く。扉全般の構造についてそこまで詳しいわけではないが、開いたら勝手に閉まってしまうタイプではないということだけは判った。
一見ルルさんが教えてくれた以上の情報はないように思えたが、しばらくしてから私は重要なことに気づいた。
「この扉、内側からは鍵がかけられないじゃないですか!」
「そうなのよ。まあ、だからこその密室というか、ね?あれ、もしかして言い忘れてたかな。」
もしかしてじゃあないでしょう……かなり重要な情報ですよ。
それも踏まえて私は考える。
案外こんなところなんじゃないかな?と内心考えていた7の可能性がこれで否定されてしまった。
残った可能性は2つだ。
犯人は鍵を持っていた。もしくは、犯人は鍵を使わずに扉を開けた。
しかし、現場を見れば何かあたりがつくだろうかと考えて来てはみたものの、実際に鍵を使わずに扉を開ける方法と言われるとあまりピンとこない。当然だが、扉の周囲に何か細工をしてあったり壊されたような形跡は見当たらなかった。これと言った手がかりを見つけられなかった以上、何も見ずに白紙のキャンパスに絵を描けと言われているようなものだ。私は空想は苦手である。ミステリ愛好者であればこういう状況でも色々とトリックを連想したりできるのかもしれないのだが素人の私には荷が重い。
ううむ、少々煮詰まってきた感がある。
私はため息をついて、静かな室内を見渡した。外からは相変わらず運動部の気合いの入った掛け声が聞こえてくるし、ルルさんにいたっては謎解きに飽きたのか椅子に座って部室内の漫画を読んでいる。のんきなものだ。
その背中を見て考える。この密室の破り方は、そもそも私に解るものなんだろうか?謎解きに飽きてしまったのならそう言ってくれれば、私も諦めがつくというものなのだけど。もちろん若干の悔しさは否めないが。
私から声をかけてギブアップしてしまおうかとも思ったが、少し引っかかるものがあった。
……いや、むしろ謎が解けるものだということは前提なのだとしたら?「謎を解明してほしい」のではなく、「問題を解くことを期待されている」のだとしたら?
なんとなく、何を考えればいいのかわかったかもしれない。
「密室を破った方法、もしかしたらあたりがついたかもしれない。」
私は切り出した。
途端に漫画を閉じたルルさんが、
「ホント?教えて教えて!」
と身を乗り出して食いついてきた。だがその前に大事なことを確かめておかなければならない。
「まあ慌てないで。その前に確認しておきたいことが一つあるんだけど。」
「ん、何?」
きょとんとした顔で尋ね返された。
「ルルはこの真相、すなわち密室破りのトリックがどんなものだったのか知っているよね?」
「えーと、それはどういう意味の質問なのかな。」
彼女は若干わざとらしく首を傾げてみせた。その反応で答えは半ば知れたような気もするが、一応ここをはっきりさせておかないと色々と可能性を考え直さなくてはならなくなる。
私は言い直した。
「後で本人に聞いたかどうかとか、そういう意味ではないよ。そういうことじゃなくて、彼がどうやって部室に入ったかは、バーベキューから帰ってきた時点でみんなが気づいたことなんじゃないかな?」
さあどうだろう。そうでないと仮説が崩れてしまう。
近くでカラスがかあ、と鳴いた。
一瞬間があってから、ルルさんは今度は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「そこまでお見通しなんだ。その通り、私はすでにこの密室のトリックは知ってるの。」
勿体をつけて当てが外れていたらどうしようと思ったが、ひとまずその心配はなくなったようだ。
「そこまでわかったってことは、そろそろ答え合わせの時間かしら?」
オーケー、それでは実演してみるとしよう。なんとなく、化学式でしか知らない反応をこれから初めて実験してみるような気分だ。
私はまずドアを開いた。そして、ドアノブがついていない扉の固定を外すと、2人で部屋の外に出てルルさんに扉と鍵を閉めてもらう。
ドアノブをひねりもせずにそのまま引っ張ると、2枚の扉板が観音開きの要領で同時に開いた。片方の扉からは、施錠されて飛び出したのであろう鍵の歯が出た状態のままだ。
想像した通りになってくれて、少し気持ちいい。
感心半分、満足半分といった表情のルルさんに私は説明した。
「普段固定されている方の扉は、その日机や椅子を運び出すために固定を外されていたんじゃない?で、戸締りをするときにその固定をし直すのを忘れたまま鍵を締めてしまったのだと思う。ちなみに、扉を動かないように固定しているこの金具の名前はフランス落としっていうらしいですよ。」
後半は以前読んだ建築家のエッセイの受け売りだ。
鍵は2枚の扉同士を固定するけれど、扉と床の固定をするわけではない。もちろん、鍵の閂に当たる部分(この部分はなんという名前なのだろうか?)が長ければこのように扉が開くことはないのだろうけど、このドアのそれはそこまで大きいつくりではなかったらしい。
「なんとはなしに引っ張ったら扉が開いたから、くだんの彼はそのまま鍵なしで食器を持ってこれたということになる。」
ミステリの探偵役は、謎が解けた時はどういう気分で解説するのだろう。少なくとも、今「私って探偵みたい!」と内心少し浮かれてしまっている私とは真逆の、クールな心境だとは思うが。でもせっかくなので、ここは内心抑えめでクールさを装ってみた。
「謎も解けたことだし、タバコでも吸いに行きましょうか。」
珍しく私から提案し、2人で喫煙所へ向かった。
喫煙所は部室棟の外れにある。四阿の四辺に設置されたベンチに腰をかけ、私たちは一服することにした。
近々大学構内が全面禁煙化されるらしく、この喫煙所は四阿ごと撤去される見通しだが、そうなったら私のような喫煙者はどうすれば良いのだろうか。サークルに所属しない私にとっては喫煙所が大学内の唯一の居場所と言ってもよかった。そして忘れもしない、ここは私とルルさんが初めて出会った場所でもある。
ルルさんは以前と同じピースの6ミリを吸っているようだ。私はもともとアメリカンスピリットのメンソールを吸っていたが、最近マルボロのアイスブラストに銘柄を変えていた。
「それにしてもすごかったね。簡単すぎたかな?」
ふわっとした煙を吐きだして、ルルさんが言った。
「簡単ということはないけど、わかってみればこれしかないだろうなって思った。」
これは見栄だ。だが、ルルさんは私の見栄くらいは見通しているだろう。アイスカプセルをかりかりとかじりながらそう直感した。ここは率直に思うところを述べるとしよう。
「ああいう感じでドアが開くところを見るのはさっきが初めてだった。でも、ルルがトリックを知っているってことが判って確信が持てた。」
「ほーう。他に理由は?」
ルルさんは嬉しそうに訊いてくる。
「そこまでたくさん手がかりがあったというわけではないけど、あとはまあ、なんだか知恵比べを挑まれているような気がしたんだもの。多分、教えてくれた情報を組み合わせた中で現実的にありうる方法でドアは開くんじゃないかなと思った。それで想像力をうまく働かせて試してみたらたまたま正解だったというわけ。」
言っているうちに、私のタバコが終わってしまった。ルルさんが吸っているピースに比べるとマルボロは燃焼が速い。
「なるほどねえ。やっぱり炯眼のケイだ。こういうことでも頼りになるなんてもっと早く知っておくべきだったなあ。ほらあれ、逃した魚は大きいってやつ?」
ひねくれているだけなのだが。
それにしても、この人の思わせぶりな言い方はなんだろう。まさか私に惚れ直したとでもいうのだろうか?心なしか彼女の瞳は潤みを帯びているように見えなくもない。そもそも今日の誘い出し方といい、少し不自然な点があったように感じる。
以前はこちらの方から振った身とは言え、もしもあなたがその気なら考えないこともない。
西日に混じって、交際していた日々の思い出の断片が私の視界の表面を覆った。
「あのね、ルル、僕は」
言い終わらないうちに、ルルさんは吸いかけのピースを私の唇に差し込んだ。予期していたかのような手際の良さだった。
「そんなケイちゃんを見込んで、一つお願いがあるんだ。」
とっさのことで言葉を返せずにいる間に彼女は続けた。
「私の代わりに、ある銃弾を探して欲しいの。」
銃弾という言葉の響きが現実離れしていて、彼女が何を言いたいのか量りかねた。
「その気になったら連絡して。まさか私の連絡先、消しちゃってるなんてことはないわよね?」
逆光で表情はよく見えなかったが、おそらく微笑みを残してルルさんはそのままどこかへと立ち去って行った。
こうして現実の中に取り残された私は、彼女の言葉の意味を吟味しようと試みた。
唇に差し込まれたピースのフィルターを見ると、ピンクがかった口紅が付いていた。
ゆっくりと吸う。
私は慣れない甘さにむせてしまった。
紅葉(日記)
月の頭に卒業試験の最終回があった。
その結果が出る月末までは、受かった時のために、そのまた次の試験の勉強をする毎日だ。「受かった時」という言い方なのは個人的な試算では落ちる公算の方が大きいからなのだが、最近はその辺のストレスは良くも悪くも無くなってきている。落ちた場合内定先には本当に迷惑をかけてしまうことになるので、それだけが唯一の気がかりだが…。自転車操業のような日々を送っている。
近頃、目が覚めたらルーティンとして少し遠くのコンビニまでミルクティーを買いに行くことにしている。
アパートを出て、県の森を左手に見ながら南へ抜ける道を通る。薄川を越え、3 分も車を走らせればもう弘法山が見えてくる。弘法山古墳は少し枯葉色が目立ってきているように感じるが、それを抜けた先、開成中を左手に見送り中山へ一気に上がって行く長い坂道の紅葉は今が一番見頃だ。左手の高遠山の紅葉を見上げながら登る坂は結構きついが、運転するのは楽しい。中山小南の交差点を右に折れ、左手に田畑と高遠山、右には松本市街を見下ろす下り坂を一気に降りるとコンビニにつく。所用時間は15分程度で、目覚まし代わりのドライブにはちょうど良い距離感のように感じる。
昨日は気が向いたので、そこから車でもう10分ほど南に足を伸ばした。
中山小の交差点で右折せずに直進してしばらく進めば、牛伏寺の看板が見えるあたりで東山山麓線に分岐する。東山山麓線は景色がいい道として有名で、塩尻インターまで抜ける10分ほどの道中はずっと右手に松本平を見下ろす格好で、走っていてとても気持ちの良い道だ。
そんな山麓線の序盤に、ハッピードリンクショップ塩尻片岡店がある。
簡易ドライブインーーといっても屋根すらないがーーのような場所で、自販機でコーヒーを買い、景色を見ながら一服という使い方をする人も多いのだろう。
以前取材でここを訪れたことを思い出して向かったのだが、相変わらず清々しい場所だった。
帰り道、開成中まで坂を降りた後に右折し、千鹿頭山を右手に臨む道を選んだ。
この道を選んだ理由は特に無かったが、景色を横目に見ていると以前の記憶が蘇った。
以前付き合っていた女性と同じような紅葉の季節に千鹿頭山を訪れたことがあった。
千鹿頭山は標高657mほどの小さな山ーー僕の住んでいる松本市は標高600m強に位置しているーーで、山頂の千鹿頭神社までは15~20分ほどで登る道があり、初心者用のハイキングのようなことができる。小さいと言っても景色はとても綺麗で、ふもとの千鹿頭池から山を見上げると心が洗われるような心持ちになる。その時も紅葉を見に、一眼レフを抱えた彼女と一緒に山を登りに行ったのだった。山を登っている途中に、歩くスピードが合わずケンカのようになってしまったことを覚えている。
もともと無意味なこだわりの強い性格である上に今よりも子供っぽかった当時の僕は、相手に合わせられずに口喧嘩をしてしまうことが度々あった。車窓から見える景色が綺麗で「写真を撮りたいからちょっと車を路肩に停めて」と言われても、僕はなぜかそれができなかった。信号か駐車場でしか車を停められないという強迫観念があるからだ。
今思い返せば簡単なお願い…というか、お願いですらないレベルのことのように思えるが、余裕がなかった当時の僕は、いつも無理難題を押し付けられているような気分だった。今でも自分一人でいる時は、たとえ自分が車を停めて写真を撮りたいと思っても、駐車場以外に車を停めることはできない(これは僕が抱えている無数の無意味なこだわりの一例だ)。
千鹿頭山を過ぎて少し走ると薄川に突き当たる。僕は右折して、川沿いの道を少し走らせることにした。右手の街路樹の向こうには小さい山々が田畑にせり出した地形になっていて、昼過ぎとは言え若干の夕方の気配をにじませた日の光がそれらを照らしていた。その日見たどこのものよりも美しい紅葉だった。車を停めて写真を撮りたいと強く感じながら僕はその景色を通過した。今彼女と出会っていたら、車を路肩に停めるくらいわけないことなんだけどなあ、と考えていた。
薄川を渡って兎川寺が見えてきた頃、恋愛ってこういうことなのか、と思った。
僕の小規模な挑戦
ちょっとだけ、という言葉の使い勝手のよさには他の追随を許さないものがある。
街角で初めて話す女の子には「ちょっとだけお茶していかない?」だし、2人で抜け出した飲み会の帰りには「ちょっとだけ歩かない?」だし、好機と見るや「ちょっとウチに寄ってかない?」などとのたまい、挙げ句の果てには「ちょっと挿れるだけだから」である。最後のせりふはともかく、僕のように物事をはっきり言えない男はとかく「ちょっと」に頼りがちだ。
僕が蛹(よう)さんを初めて食事に誘うことができたのも、何を隠そう「ちょっと」のおかげだった。
蛹さんは以前に大学で僕と同じ英語のクラスに在籍していた女性だ。といっても、留年生の僕はその授業を再履修で受講していたので彼女とは学部も学年も全く異なる。彼女は人文学部の1年生であった。
ふつうの人たちにはあまり馴染みのない話かもしれないが、留年生というのはなかなか辛い稼業である。僕のように新入生の英語の講義を再履修になってしまうと、学部も年齢も全く違うフレッシュな1年生たちに混ざって、英会話やら何やらをやらされるはめになる。自分が浮いてしまうことが判っている空間に週2で通うのはかなり苦痛である。その上、ペアを作らなければいけないタイプの授業ーー悲しいことに、大学での英語の講義は多くの時間がこのタイプにあたるーーでは、恐縮ながら講師のマーク先生を毎度悩ませる運びとなってしまう。「いつも端っこに一人でいるアイツは一体誰と組ませればいいんだ?」
ただ、その年のミスターマークの講義における僕はツイていた。僕の他にもう一人浮いているひとがいたのだ。それが蛹さんだった。
最初に彼女を一目見て、「背が低そうなこと以外にはさして特徴がなさそうに見えるが、この人はなにか異質な雰囲気を静かに発している。」という感想を僕は抱いた。よく見ると、一重で切れ長の瞳はぱっちりとしていて、アジアンビューティーと表現してもよいのかもしれなかったが、蛹さんの発するオーラは必ずしもその目力(めぢから)によるものではないように思えた。譬えるなら、授業中ーーもちろん大学のものではなく、中学もしくは高校の教室でのそれだーーに、こっそり、しかしそれでいて堂々と読書にふけっている女子学生といえば過不足ないだろうか。やや色白の控えめな表情の中に僕は、隠れた不安と隠しきれない反骨の気配を読み取ることができた。端的に言ってしまえば、「話しかけるなオーラ」をびんびんに発していた彼女はそうあるべくして浮いた存在になっていた、といったところであろうか。
まあ、そんなことを考えながら、同じく浮いていたぼっちの僕は、別段そう望んだわけでもなく自然と蛹さんの隣席ポジションを獲得するに至ったのだった。
元来慎ましい性格の僕は、蛹さんとはあくまでも「不本意ながら組んでしまっている同士」の距離感を保とうと考えた。いつも隣席に座る僕に対しては視線で会釈を(もちろん、この解釈には僕の願望が混じっていたことは否定できない)してはくれるものの、蛹さんの発する独特のピリついた雰囲気は僕を含めた全方位に向けられており、前期が終盤に差し掛かる頃になっても僕は講義に必要な英会話以外のコミュニケーションを彼女ととろうという気にはならなかった。英会話をしている際も、彼女が儀礼的な笑み以上の表情を見せることは基本的になかったし、僕や英会話の内容に関する興味を見せたことは一度もなかった。キモチワルイ人だと思われたくはなかったので、僕もなるべく英会話をしている時以外には彼女の方を見ないように努め、文字通り敬して遠ざけることを旨とした。
彼女に話しかけてみたい気持ちはあったが、調子に乗って話しかけて手ひどい拒絶を受けたりするのは嫌だったし、そうなってしまった日には、僕のメンタルは今度こそ崩壊して、登校拒否になってしまうのは必至だった。ちょっとのことでついつい心が折れてしまう留年生にとってはそれはリスキーな賭けであった。
それが前期の13週目か14週目のどちらだったかは判然としないが、その日の講義でもやはり英会話の真似事をペアでしなくてはならないことになり、僕は蛹さんと話すことになった。
テーマは「最近困っていること」だった。
この時、初夏のブタクサの花粉に悩まされていた僕は、
「最近ブタクサーー英訳が判らずpig grassと言ったら、彼女は珍しく儀礼的ではない笑顔を見せたーーの花粉に悩まされているが、大体の人の花粉症は春に終わっているのであまり理解されず、かなしい」というようなことを英語で述べた。
「それはかわいそうに。今日の調子はいかが?」と彼女がそれらしき英語で返したので、僕が「今日は薬を飲んだので大丈夫だけれど、昨日はすごく鼻水が出て(I had a runny nose)困った」と述べたところ、彼女は「ん?」という顔をした。
「えっと、runny nose って何?…あ、いや、なんですか?」彼女は日本語で尋ねてきた。「runny nose とは鼻水が出ているという意味で、ネイティブはもっぱらこの表現を用いる。」と僕は(もちろん日本語で)答えたら、彼女はなぜか吹き出した。「どうしてそんなに自信満々なの?pig grassとか言っていたくせに!」
僕はやや憤慨したが、じっさい僕の英語力は日本英語検定協会が認定するところの3級レベルであるのは間違いなかったので素直に認めることにした。「いや、実は昨日読んだ雑学の本に書いてあっただけなんだよ。」「なんだ、やっぱり。そんなところだろうと思った。」
当然なのか意外なのかは解らないが、これが蛹さんとの初めての日本語での会話であった。
そして、この記念すべき会話は講師のマーク先生によって遮られた。「Hey,don’t speak Japanese!」ミスターマークは続けて、二人とも期末テストから10点マイナスだからね!というようなことを言った。
「嘘だろ…」のジェスチャーをした男子留年生の隣で、少女は「C’est la vie.」と小声で呟いた。
講義が終わった後、講義室を出た僕たちは廊下で初めて簡単な雑談を交わした。
去り際に、ふと思い立った僕は冒険してみることにした。
「僕のせいであなたの10点が犠牲になってしまったわけだし、何かおごらせてくれませんか?お詫びに。」
「えー。10点でしょう。ジュースなんかじゃあごまかされませんよ?何か美味しいものだったら考えてもいいけれど。」
「じゃあ、ちょっとだけ美味しいご飯を食べに行きましょうか。」
「ちょっとだけなんだ!」
彼女は笑ってOKしてくれた。
約束した週末までの間、僕は彼女と何を食べに行くかについて少し頭を悩ませたが、結局、元同級生の友人たちとたまに行く郊外のスープカレー屋まで足を延ばすことにした。
僕は特段スープカレーについて何か一家言を持っているわけではないのだが、この店のそれがかなり美味しいことは間違いない。スパイスのきいたスープに産地直送の野菜や肉を盛り込んだスープカレーの味は無類で、洋風の民家をリノベーションしたらしい洒落た店構えも手伝ってか、客足が途切れないのが常である。市街地から車を30分ほど運転しないと行けない場所にあるにも関わらず、僕も月に1回くらいは友人とこの店を訪れることにしていた。
僕たちが向かったその日もやはり、店の外でしばらく待たねばならないほど盛況だった。他の客たちーー男女連れが多かったーーがしているように、僕たちも話しながら時間を潰すことにした。
その日の彼女は普段教室で見るよりいくぶんかおしゃれであったように思う。
大学で見る彼女は一言でいうなら地味めの女子大生、と言った格好をしていることが多かったが、この時の服装はどちらかというと派手めであった。
ぱっと見、サテン地のパープルのスカートが目を引いたが、それ以外のトップス、パンプス、そしてハンドバッグは全て落ち着いた白で固めており、全体的に見ると派手な中にも上品な印象を覚えた。そういった方面に疎い僕にも蛹さんのおしゃれさを伺うことができたし、彼女の服装に感心してじっくり眺めてしまった。そしてスープカレー屋を選んだことを少し後悔した。
そんな僕の様子を見てどう蛹さんがどう思ったかは判らないが、彼女は饒舌だった。
蛹さんの名前が「さなぎ」の蛹であることを僕はその時初めて知った。名前だけでなく、全国3000位台の珍しい苗字もあいまってとても気に入っていること、そして身長は143センチメートルだが自分は若く、まだまだ伸び代があることなどを彼女は楽しそうに語った。全国50位台の苗字に平凡な名前、そして178センチメートルの身長を持つ自分とはまるで対照的だと僕が言うと、彼女はくすくすと笑った。
「でも、なんだか意外ですね」僕は、ややあらたまった口調で言った。「私は誰とも話したくないの、みたいな人かと思ってましたよ。」
彼女は微笑んだ後、真面目な口調で答えた。
「そう見えるなら、そう見せているだけですよ。お高くとまってるつもりはないのだけれど、大学ってヘンな人が気安く話しかけてくるじゃない?そういうのは、私には必要ないの。」
「なるほど。」
「そんなことより、私だって意外だったんですよ。」
「え。何がです。」
予想外の返答に僕は少し驚いた。蛹さんは上目遣いで僕を見ながら続けた。
「だって、私には興味ありませんみたいな顔をずーっとしときながら、こうしてちゃっかり食事に誘ってきているじゃないですか。」
そう言って僕を見上げる蛹さんを少し見ているうちに、僕は高めのヒールを履いた彼女が少し背伸びをしていることに気がついた。
僕が何か言おうとしたところで、店から出てきた店員が僕たちを呼んだ。
僕たちはようやくスープカレー屋に入ることができた。
僕はローストチキンが入ったスープカレーを選び、蛹さんは野菜ときのこが入ったスープカレーを選んだ。
辛さを選ぶ段になって、辛いものが苦手な僕は「0辛(お子様にオススメ)」を注文した。それを見た彼女は笑いながら「4辛(自信がついてきたあなたに)」を頼んだ。
辛いのが得意ってわけではないのだけれど、と彼女は言った。
「こういうのを見ると、挑戦したくなっちゃわない?」
結局のところ、4辛は彼女にはオーバーワークのようであった。
「思っていたより全然辛い!でもおいしい。」
「それなら良かった。」
「挑戦は失敗だったかもだけれどね。これはまだ、私には危険な辛さです。」
食べ進めるにつれて徐々に、慎重に観察しなければ気づかない程度に蛹さんは汗ばんでいった。僕はその様子を見逃さないようにしつつ、自分のスープカレーに取り組むことにした。
お子様向けに安全に調合されたスパイスを味わいながら僕はしばし思索にふけった。
何にでも挑戦してみたくなるというのはとても健全で、また実は真似をするのが難しい考え方であるように思える。失敗しても何とかなるという環境が前提にないと、何においてもなかなか挑戦はできない。そういった意味では、失敗してもどうにかなる状況というものが年々少なくなっているのを実感している僕にとっては羨ましくもあり、また自分にはもともと不可能な考え方であるようにも感ずる。「お前の道を進め、人には勝手なことを言わせておけ。」という意味の言葉を残したのはダンテだが、そういった態度が許されるのはやはり当人が何か非凡なものを持っている場合に限られるのは自明だ。
また一方で、何かに挑戦しようという試みは安易に行いすぎると、その行為自体の真剣さや、突き詰めると対象への敬意を大きく欠いてしまう。当たり前のことではあるが、このことに無頓着な人は多いように常々感ずる。必然、挑戦するという行為を真に行うには、まず自分が何者なのかということの認識、そしてそれに基づいた慎み深さが要求されるとは言えまいか。
「あのう。」
蛹さんの一言で僕は現実に引き戻された。
「さっきから虚空を見つめていますけれど、どうかしました?」
すでにカレーを食べ終えた彼女は、不思議そうにこちらを見ていた。
「いや、少しぼーっとしていました。」
「ふふ、結構よくぼーっとしていますよね。」
僕と接する女性はなぜかこうした感想を抱きがちである。
「カレーはおいしかった?」
「ええ。いいお店を知ってるんですね!」
「この辺りに住んでいる期間がちょっと長いだけですよ。」僕は苦笑した。
車に乗り込み、僕らは帰路についた。
今期の取得単位に関する展望などをお互い述べているうちに、やがて僕たちの車は市内に入った。
「でも、量は足りなかったよね。」助手席の蛹さんがおもむろに言った。
「確かに、凝っているぶん量は少なめだね。女性にはちょうどいいくらいかと思ったけれど、足りなかったですかね?」
「うーん、そんなところかな。」彼女は笑った。
「それより、さっきはぼーっとしながら何を考えていたんですか?」
「ふむ。」
女性に向かってくどくどと持論を展開するのは僕の好むところではないので、別の話題でごまかすことにした。
「蛹さんの今日の格好は素敵だなって思っていたんですよ。」
「本当?」
「本当だよ。蛹さんはキレイだからどんな服装でも似合うと思うけれど、センスがいいなあと。」
「お世辞でしょう。本当は何を考えていたのかなー。」
「いやいや。あと、これからどうしようかと思って。」
言ってしまってから、これは言うべきではなかったなと思った。ご飯を食べ終えたのだから、帰る以外に選択肢はないではないか。こういう時にすっと帰らず、ダラダラと一緒にいる時間を伸ばしたがる男はモテないものと相場は決まっている。
僕らの車は大学まで後5、6分というところまで来ていたが、この時ちょうど赤信号に引っかかった。
少しだけ間があった後、彼女は尋ねた。
「これから…あなたはどうしたいの?」
今までの数々の悲しい思い出が僕の脳裏をよぎった。
「僕は……。もうちょっとだけ、蛹さんと一緒にいたいな。」
蛹さんを見ると、解ってたよ、という表情で微笑んだ。
「いいですよ。」
でもね、と彼女は続けた。挑戦的な上目遣いをして、僕の眼をじっと見つめた。
「ちょっとだけっていうのは、うそでしょう?」
キスをした後、この人とは長い付き合いになるだろうなと思った。
狐の嫁入り
最近ふと疑問に思ったことがある。
後背位で女性と繋がっている時、僕(たち)は何について考えているのがベストなんだろう?
当たり前のことだが後背位での性交の最中は、女性の顔を見ることからも、女性にこちらの顔を見られることからも解放されている。それゆえ相手の反応を気にせず行為に没頭することもできるし、逆に全然関係ないこと——たとえば僕の場合、駅前に新しくできた趣味のよさそうなイタ飯屋のことであったり、昨日だけ妙にうまく作れた高菜チャーハンのことなんかがこれにあたる——を考えながら機械的に腰を振っていてもよいということになる。おそらく自分を含めて男性は後者の方が多いんじゃないだろうか。などと言うと女性は顔をしかめるかもしれないが、行為に集中しすぎると我々男性はすぐにいってしまうかもしれないわけで、あえて集中しないことによって僕は自分の持続、ひいては君の快感も長くさせているというわけだ。とまあ、運悪く「さっき別のこと考えてたでしょ」とか言われてしまった時はもっぱらこう言い訳することにしている。
セックスは男女の究極のコミュニケーションだ、なんていう人もいるが、肌すらも重ねて行うその最中に、実は顔も合わせず全く別のことを考えている瞬間があるというのはなかなか因果なものであるというか、示唆的ではないか。これについて、僕は元来面倒くさい人間なので、童貞を捨てた直後なんかはセックスをしていても「結局のところ人間は一人だ。肌を重ねるイコール相手と分かり合えたということではないのだ」などと気難しげに——腰を振りながらではあるが——ヒタってみたりしていたが、最近はどうでもよくなってきて最中に「モケーレ・ムベンベ」とか「ホイジンガ」とか「ブーバキキ効果」とか支離滅裂な単語を思い出しては——やはり腰を振りながらだが——ほくそ笑むようなつまらない男になってしまった。慣れとは恐ろしい。
ここまで考えていたその日の僕は、いつのまにか結構後戻りができないところまで来ていることに気付いた。射精してしまうまでせいぜいあと7、8秒といったところか。後背位なので相手の表情は見えないが、仕方がない。慌てながらもしっかりと快感を受け取るべく、数回強めに往復運動をしてから腰を深くまで突き込み、一番奥でゆっくりと射精した。感覚はゴム越しでも伝わったようで一瞬相手は大きく喘いだが、タイミング的には僕が早すぎたらしく、いくまでには至らなかったようだ。案の定、一息つくと振り返って、じとっとした目で僕を見つめてきた。やれやれ。ベッドから立ち上がり、取り外したコンドームを結んで捨てつつ、ティッシュを箱ごとベッドに持っていってやった。動きは緩慢ながらも、数回——場合によっては十回以上のこともある——いったセックスの後よりかはいくぶんハッキリとした手つきで下着を身に着ける彼女の表情は明らかに不服そうであった。
「さっき別のこと考えてたでしょ」
気付かれていたようだ。
日ごろ女性と接していると、この人たちはエスパーなんじゃないのか?と恐ろしく思う場面が多々あるものだが、目の前にいるこの女性に関してはとりわけその頻度が高いことが最近の気付きである。彼女の前世は松本平の化け狐の元締めと名高い玄蕃之丞あたりなのではないかと僕は密かにニラんでいる。
結局彼女の機嫌が治ることはなく、いつもなら一緒に眠るところをその日はそのまま隣室へと帰って行った。
アパートの隣室に住む彼女と親しくなった経緯というのは、よく言えば運命的だし、悪く言えばご都合主義のようなものだった。
あなたは留年生の生態についてはどれくらい詳しいだろうか?
留年生といったら、調子のいい日はヒルナンデスの放送時間中、調子が悪い日はミヤネ屋の放送が終わるか終わらないかの時間に目が覚めるものと相場が決まっている。
夏のその日の僕は前者であった。
珍しくすっきりと午前中——ギリギリではあるが午前中——に目覚めた僕は、ヒルナンデスの3色ショッピング!のコーナーを眺めながら、たまには実がある行動をしようと思い立ち、市内のチェーンのカフェでブランチと洒落込むことにした。
いつもなら両隣としっかり区切られている4人掛けのボックス席に収まるのだが、その日はタイミングが悪く、仕切りがない2人掛けの席しか空いていなかった。僕はアイスコーヒーと小倉トーストを注文した。
隣の席には私服OL風の女性が座っていて、アイスココアを飲んでいた。より正確に描写するならば、彼女はアイスココアの上に乗っている巨大なソフトクリームと格闘していた。黒タイツを履き、白地に細い黒のボーダーのワンピース、その上に鮮やかなマスタードのカーディガンを羽織った彼女の第一印象はまさしく「量産型OL」といった感じだった。これで首から社員証でも下げていたら完璧なんだけどなと思いつつ、僕は運ばれてきた小倉トーストを食べながら、彼女がソフトクリームをほおばる姿をその都度目で追ってしまっていた。
しばらくするとこちらの視線に気付いたらしく、思い切り目が合った。慌てて目を逸らそうとすると、同じく目を逸らそうとした彼女は体ごと前に向き直り、勢い余ってグラスの中身をテーブルと床の上にこぼしてしまった。幸いなことに彼女の服や持ち物が濡れることはなかった。
「大丈夫ですか?」
反射的にジャケットの内ポケットにしまったハンカチを手渡したのは、今思えば彼女のくりっとした目元に無意識に惹かれたからだったのかもしれないが、気に入っていた自分のハンカチが躊躇なく茶色と白でベタベタに汚れてしまうのを見て、僕はややげんなりしてしまった。
「そのハンカチは差し上げますよ」
相手に気を遣わせないよう、わざと少し気の毒そうに微笑みながら言った。
「あ、いえ、そんな」
女性は何か言いたげではあったが、ちょっとその場にいるのがイヤになった僕は有無を言わせない感じで微笑み直すと、そのまま席を立って店を出ることにした。
残された彼女の不満さと申し訳なさが混ざったような表情が妙に気にかかってしまい、その後の僕は家に帰ってごろごろして夕方以降を無駄に過ごした。
まるで元から付き合いがあった知り合いであるかのように、彼女はその晩の8時過ぎに僕の家までハンカチを届けに来た。社員証を首から下げたままの彼女から、実は隣の部屋に住んでおり、以前に一度アパートの廊下ですれ違っていたことなどを聞いた。
その後、僕の部屋に上がった彼女は当然のように夕飯——エビとズッキーニの塩焼きそば、それに小松菜と油揚げの煮びたしだった——を作って食事をし、当然のように僕と一度セックスをしてシャワーを浴びると、やはり当然のように隣室へと帰っていった。
それからのここ数か月はずっと彼女の尻に敷かれているが、なんとなく、このまま彼女と結婚してもいいような気がしている。
枝豆の効用
最近読んだ本によると、人は誰しも必ず秘密を持っているものらしい。
皆さんはどうだろうか?程度の大小はあれ、一つ二つは自分しか知らない秘密を持っているのではないだろうか。
私は自分のことを正直な性格だと自負しているし、実際に人からもそう思われているように感じるが、そんな私にも、人には絶対に言えないでいることが一つある。
私は一度だけ女性とキスをしたことがある。
私は女性に全くモテない。そして、普段からモテないモテない言っているせいで、逆にこのことは人に言えなくなってしまった。語ったところで嘘だと思われるか、今までのモテないアピールはなんだったのだと怒られるかのどちらかに決まっている。
もちろんキスをしたのはその一度だけだし、恋人ができたことだって今まで一度もないのだが、そう言ったところで何のフォローにもなるまい。1と0の違いを何より大事にするのが我々童貞だから。
二年前の春のある日、夕焼けがもう見えるか見えないかの頃合いに、私はビールと枝豆を注文した。
その日初めて入る居酒屋だった。
当時の私は暇を持て余していた。大学の講義は少なくなかったが、その頃所属していたサークルを持病を理由に休部していたということもあり、放課後にはすることが何もなかった。むろん、だからといって勉学に勤しむというわけもなく、当時手に入れたばかりの車で飽きるまでドライブをするか、一人居酒屋などしていっぱしのおじさんを気取ったりするのが主な私の過ごし方であった。
その日訪れたのは駅前の細い通りを東に進んで一分ほどの、狭くはないが広くもない、常に仕事終わりのサラリーマンで込み合っている感じの店だった。カウンター席に座り、とりあえずビール、とばかりにその二品を頼んだというわけだった。
一日の飲みの半ばを過ぎるまではもっぱらビール、と決めている私はおそらく酒に弱い方ではないが、その日は普段に比べてペースが速かったのか、早い段階で酔いを感じ始めていた。それでも私は飲む手を止めたりしなかった。
枝豆に手を付ける気にはならなかった。
サークルを休部した本当の理由は失恋だった。サークル内にいた女の子に告白して振られてしまった私は、居づらくなって休部したのだった。
今では女の子に振られるくらいどうってことはないが、いや、一週間くらいはへこんでしまうかもしれないけど、とにかくすぐに立ち直れることは間違いない。
ただ、二年前の私にはまだ女性に振られる場数が足りていなかったのだろう。失恋のダメージは、春先の私の心に重い影を落とし続けていた。当時の私は酒を飲むか、スピードを出すかの二つでそのストレスを発散しようとしていたように思える。
徐々に思考があやふやになってきた私は、枝豆の豆を全てさやから出す作業にとりかかった。
目の前にある二つの皿のうち、片方には山ほど枝豆が入っている。さやを一つずつ持ち、豆を出して、出した豆をもう片方の皿へ、そして殻はテーブルの上へ。単調な作業は声を出しながらがよい。豆を一粒取り出し、別の皿に入れていくうちに、私は自然と「好き、嫌い、好き、嫌い」とつぶやいていた。
一通りの作業に少なくとも十分は要したことを記憶している。
だが、おかしい。最後の一粒を移し終え、最初の皿が空になったとき、私が発していた言葉は「嫌い」だった。
数え間違ったみたいだ。そう思った私は、また豆を一粒ずつ、元の皿に戻し始めた。変わらず「好き、嫌い」と唱えながら。
三往復はしただろうか。何度やっても最後に発する言葉は「嫌い」であることに私がうすうす気付き始めたころ、右隣の席から声がかかった。
「ねえ、それ何してるの?」
気付かなかったが、隣にはキャリアウーマン風の女性が一人で座っていた。声の感じからして年は三十前くらいだろうと推測できたが、肩までの長さの黒髪とくっきりした目元からは疲れを感じさせず、さっぱりとした印象を与えた。
端的に言って美人だった。彼女もまた、ビールを飲んでいた。
「見て判りませんか。豆占いですよ。」
「そ、そっか。君、さっきからずっとぶつぶつ言いながら豆をいじってるからさ、気になって。」
「それはすみませんでした。僕、ちょっと困っているんですよ。」
「何が?」
「何回やりなおしても、あの子の気持ちは変わらないんです。」
恥ずかしいことに、私はその時半分泣いていた。
ああ、見ず知らずの人の前で泣いてしまっているな、恥ずかしいな、と思った。
「なんだ、そんなこと。簡単じゃん。」
「え?」
その女性は皿の上の豆を一粒、細い指先でつまむと、そのまま自分の口に放り込んでしまった。
「これで好きに変わったでしょ。まあ、あなたのことを好きなのはその子じゃないかもしれないけど。」
私はちょっと固まってしまった。ぽかんとして彼女の口元を見つめていると、彼女は続けた。
「酔ってるからこういうこと言うんだけどね、君の目、結構好きかも。」
気付いたら、二十年以上したことがなかったファーストキスを、会ったばかりの女性に奪われていた。
今でも枝豆を見ると、あの時の女性の髪の匂いを思い出して、少しもどかしい気持ちになってしまう。
ぬまです
沼 景一郎です。
サークルやめちゃったので、今までに書いた小説を載せる場所を作りたいなあと思ってブログ作りました。よろしくお願いします。