狐の嫁入り

 最近ふと疑問に思ったことがある。
 後背位で女性と繋がっている時、僕(たち)は何について考えているのがベストなんだろう?
 当たり前のことだが後背位での性交の最中は、女性の顔を見ることからも、女性にこちらの顔を見られることからも解放されている。それゆえ相手の反応を気にせず行為に没頭することもできるし、逆に全然関係ないこと——たとえば僕の場合、駅前に新しくできた趣味のよさそうなイタ飯屋のことであったり、昨日だけ妙にうまく作れた高菜チャーハンのことなんかがこれにあたる——を考えながら機械的に腰を振っていてもよいということになる。おそらく自分を含めて男性は後者の方が多いんじゃないだろうか。などと言うと女性は顔をしかめるかもしれないが、行為に集中しすぎると我々男性はすぐにいってしまうかもしれないわけで、あえて集中しないことによって僕は自分の持続、ひいては君の快感も長くさせているというわけだ。とまあ、運悪く「さっき別のこと考えてたでしょ」とか言われてしまった時はもっぱらこう言い訳することにしている。
 セックスは男女の究極のコミュニケーションだ、なんていう人もいるが、肌すらも重ねて行うその最中に、実は顔も合わせず全く別のことを考えている瞬間があるというのはなかなか因果なものであるというか、示唆的ではないか。これについて、僕は元来面倒くさい人間なので、童貞を捨てた直後なんかはセックスをしていても「結局のところ人間は一人だ。肌を重ねるイコール相手と分かり合えたということではないのだ」などと気難しげに——腰を振りながらではあるが——ヒタってみたりしていたが、最近はどうでもよくなってきて最中に「モケーレ・ムベンベ」とか「ホイジンガ」とか「ブーバキキ効果」とか支離滅裂な単語を思い出しては——やはり腰を振りながらだが——ほくそ笑むようなつまらない男になってしまった。慣れとは恐ろしい。

 

 ここまで考えていたその日の僕は、いつのまにか結構後戻りができないところまで来ていることに気付いた。射精してしまうまでせいぜいあと7、8秒といったところか。後背位なので相手の表情は見えないが、仕方がない。慌てながらもしっかりと快感を受け取るべく、数回強めに往復運動をしてから腰を深くまで突き込み、一番奥でゆっくりと射精した。感覚はゴム越しでも伝わったようで一瞬相手は大きく喘いだが、タイミング的には僕が早すぎたらしく、いくまでには至らなかったようだ。案の定、一息つくと振り返って、じとっとした目で僕を見つめてきた。やれやれ。ベッドから立ち上がり、取り外したコンドームを結んで捨てつつ、ティッシュを箱ごとベッドに持っていってやった。動きは緩慢ながらも、数回——場合によっては十回以上のこともある——いったセックスの後よりかはいくぶんハッキリとした手つきで下着を身に着ける彼女の表情は明らかに不服そうであった。

 「さっき別のこと考えてたでしょ」
 気付かれていたようだ。

 


 日ごろ女性と接していると、この人たちはエスパーなんじゃないのか?と恐ろしく思う場面が多々あるものだが、目の前にいるこの女性に関してはとりわけその頻度が高いことが最近の気付きである。彼女の前世は松本平の化け狐の元締めと名高い玄蕃之丞あたりなのではないかと僕は密かにニラんでいる。
 結局彼女の機嫌が治ることはなく、いつもなら一緒に眠るところをその日はそのまま隣室へと帰って行った。

 

 アパートの隣室に住む彼女と親しくなった経緯というのは、よく言えば運命的だし、悪く言えばご都合主義のようなものだった。

 

 あなたは留年生の生態についてはどれくらい詳しいだろうか?
 留年生といったら、調子のいい日はヒルナンデスの放送時間中、調子が悪い日はミヤネ屋の放送が終わるか終わらないかの時間に目が覚めるものと相場が決まっている。
 夏のその日の僕は前者であった。
 珍しくすっきりと午前中——ギリギリではあるが午前中——に目覚めた僕は、ヒルナンデスの3色ショッピング!のコーナーを眺めながら、たまには実がある行動をしようと思い立ち、市内のチェーンのカフェでブランチと洒落込むことにした。

 

 いつもなら両隣としっかり区切られている4人掛けのボックス席に収まるのだが、その日はタイミングが悪く、仕切りがない2人掛けの席しか空いていなかった。僕はアイスコーヒーと小倉トーストを注文した。
 隣の席には私服OL風の女性が座っていて、アイスココアを飲んでいた。より正確に描写するならば、彼女はアイスココアの上に乗っている巨大なソフトクリームと格闘していた。黒タイツを履き、白地に細い黒のボーダーのワンピース、その上に鮮やかなマスタードのカーディガンを羽織った彼女の第一印象はまさしく「量産型OL」といった感じだった。これで首から社員証でも下げていたら完璧なんだけどなと思いつつ、僕は運ばれてきた小倉トーストを食べながら、彼女がソフトクリームをほおばる姿をその都度目で追ってしまっていた。
 しばらくするとこちらの視線に気付いたらしく、思い切り目が合った。慌てて目を逸らそうとすると、同じく目を逸らそうとした彼女は体ごと前に向き直り、勢い余ってグラスの中身をテーブルと床の上にこぼしてしまった。幸いなことに彼女の服や持ち物が濡れることはなかった。
 「大丈夫ですか?」
 反射的にジャケットの内ポケットにしまったハンカチを手渡したのは、今思えば彼女のくりっとした目元に無意識に惹かれたからだったのかもしれないが、気に入っていた自分のハンカチが躊躇なく茶色と白でベタベタに汚れてしまうのを見て、僕はややげんなりしてしまった。
 「そのハンカチは差し上げますよ」
 相手に気を遣わせないよう、わざと少し気の毒そうに微笑みながら言った。
 「あ、いえ、そんな」
 女性は何か言いたげではあったが、ちょっとその場にいるのがイヤになった僕は有無を言わせない感じで微笑み直すと、そのまま席を立って店を出ることにした。
 残された彼女の不満さと申し訳なさが混ざったような表情が妙に気にかかってしまい、その後の僕は家に帰ってごろごろして夕方以降を無駄に過ごした。

 

 まるで元から付き合いがあった知り合いであるかのように、彼女はその晩の8時過ぎに僕の家までハンカチを届けに来た。社員証を首から下げたままの彼女から、実は隣の部屋に住んでおり、以前に一度アパートの廊下ですれ違っていたことなどを聞いた。
 その後、僕の部屋に上がった彼女は当然のように夕飯——エビとズッキーニの塩焼きそば、それに小松菜と油揚げの煮びたしだった——を作って食事をし、当然のように僕と一度セックスをしてシャワーを浴びると、やはり当然のように隣室へと帰っていった。

 

 それからのここ数か月はずっと彼女の尻に敷かれているが、なんとなく、このまま彼女と結婚してもいいような気がしている。