枝豆の効用

 最近読んだ本によると、人は誰しも必ず秘密を持っているものらしい。
 皆さんはどうだろうか?程度の大小はあれ、一つ二つは自分しか知らない秘密を持っているのではないだろうか。
 私は自分のことを正直な性格だと自負しているし、実際に人からもそう思われているように感じるが、そんな私にも、人には絶対に言えないでいることが一つある。


 私は一度だけ女性とキスをしたことがある。
私は女性に全くモテない。そして、普段からモテないモテない言っているせいで、逆にこのことは人に言えなくなってしまった。語ったところで嘘だと思われるか、今までのモテないアピールはなんだったのだと怒られるかのどちらかに決まっている。 
 もちろんキスをしたのはその一度だけだし、恋人ができたことだって今まで一度もないのだが、そう言ったところで何のフォローにもなるまい。1と0の違いを何より大事にするのが我々童貞だから。
 


 二年前の春のある日、夕焼けがもう見えるか見えないかの頃合いに、私はビールと枝豆を注文した。
 その日初めて入る居酒屋だった。
 
 当時の私は暇を持て余していた。大学の講義は少なくなかったが、その頃所属していたサークルを持病を理由に休部していたということもあり、放課後にはすることが何もなかった。むろん、だからといって勉学に勤しむというわけもなく、当時手に入れたばかりの車で飽きるまでドライブをするか、一人居酒屋などしていっぱしのおじさんを気取ったりするのが主な私の過ごし方であった。
 その日訪れたのは駅前の細い通りを東に進んで一分ほどの、狭くはないが広くもない、常に仕事終わりのサラリーマンで込み合っている感じの店だった。カウンター席に座り、とりあえずビール、とばかりにその二品を頼んだというわけだった。

 

 一日の飲みの半ばを過ぎるまではもっぱらビール、と決めている私はおそらく酒に弱い方ではないが、その日は普段に比べてペースが速かったのか、早い段階で酔いを感じ始めていた。それでも私は飲む手を止めたりしなかった。
 枝豆に手を付ける気にはならなかった。
 
 サークルを休部した本当の理由は失恋だった。サークル内にいた女の子に告白して振られてしまった私は、居づらくなって休部したのだった。
 今では女の子に振られるくらいどうってことはないが、いや、一週間くらいはへこんでしまうかもしれないけど、とにかくすぐに立ち直れることは間違いない。
 ただ、二年前の私にはまだ女性に振られる場数が足りていなかったのだろう。失恋のダメージは、春先の私の心に重い影を落とし続けていた。当時の私は酒を飲むか、スピードを出すかの二つでそのストレスを発散しようとしていたように思える。
 


 徐々に思考があやふやになってきた私は、枝豆の豆を全てさやから出す作業にとりかかった。
 目の前にある二つの皿のうち、片方には山ほど枝豆が入っている。さやを一つずつ持ち、豆を出して、出した豆をもう片方の皿へ、そして殻はテーブルの上へ。単調な作業は声を出しながらがよい。豆を一粒取り出し、別の皿に入れていくうちに、私は自然と「好き、嫌い、好き、嫌い」とつぶやいていた。
 一通りの作業に少なくとも十分は要したことを記憶している。
 だが、おかしい。最後の一粒を移し終え、最初の皿が空になったとき、私が発していた言葉は「嫌い」だった。
 数え間違ったみたいだ。そう思った私は、また豆を一粒ずつ、元の皿に戻し始めた。変わらず「好き、嫌い」と唱えながら。
 


 三往復はしただろうか。何度やっても最後に発する言葉は「嫌い」であることに私がうすうす気付き始めたころ、右隣の席から声がかかった。
 「ねえ、それ何してるの?」
気付かなかったが、隣にはキャリアウーマン風の女性が一人で座っていた。声の感じからして年は三十前くらいだろうと推測できたが、肩までの長さの黒髪とくっきりした目元からは疲れを感じさせず、さっぱりとした印象を与えた。
 端的に言って美人だった。彼女もまた、ビールを飲んでいた。

 

 「見て判りませんか。豆占いですよ。」
 「そ、そっか。君、さっきからずっとぶつぶつ言いながら豆をいじってるからさ、気になって。」
 「それはすみませんでした。僕、ちょっと困っているんですよ。」
 「何が?」
 「何回やりなおしても、あの子の気持ちは変わらないんです。」
 恥ずかしいことに、私はその時半分泣いていた。
 ああ、見ず知らずの人の前で泣いてしまっているな、恥ずかしいな、と思った。
 「なんだ、そんなこと。簡単じゃん。」
 「え?」
 その女性は皿の上の豆を一粒、細い指先でつまむと、そのまま自分の口に放り込んでしまった。
 「これで好きに変わったでしょ。まあ、あなたのことを好きなのはその子じゃないかもしれないけど。」
 私はちょっと固まってしまった。ぽかんとして彼女の口元を見つめていると、彼女は続けた。
 「酔ってるからこういうこと言うんだけどね、君の目、結構好きかも。」
 
 気付いたら、二十年以上したことがなかったファーストキスを、会ったばかりの女性に奪われていた。


 今でも枝豆を見ると、あの時の女性の髪の匂いを思い出して、少しもどかしい気持ちになってしまう。