遠景、近景

 車のフロントガラスは一部が凍りついていて、解氷も含めて暖機するのに十分弱を要した。真冬の深夜とはいえ凍結はしていないだろうとたかをくくっていたのが仇となった。デフロスターが効いてくるまでの数分間ただぼんやりしているのも悪くはないのだが、今日は助手席に女がいたのでそういうわけにもいかなかった。

「解氷スプレーとか、氷を削るスクレーパーはないの?」

 女は訊ねた。

 男はそうしたものを備え付けておくのを面倒臭いと感じるたちだった。毎度暖機をしている間こそ次までに装備を買い揃えておこうと思うのだが、結局のところ、少し家を出るのを早めればいいだけの話だと考えて億劫になってしまうのだった。

 以前付き合っていた女にも同じように文句を言われたことがあったな、と男は思った。

 

 数時間前、男は自室のソファに座りながら女とテレビを見ていた。クイズ番組で、高学歴の大学生とテレビタレントがチームに分かれて戦うというものだった。

 日本語や歴史の知識に関する問題の多くは男が知っているものだった。

 男が自分にわかる問題の答えをうっかり言ってしまうと、女は感心した様子だった。だが、その次の問題から逐一男の予想を尋ねてくるようになり辟易した。

 しばらくして出題のジャンルが変わり、ひらめきを必要とする問題や芸能に関する問題になると男にはほとんどと言っていいほどわからなかった。対照的に女はこうした問題はすぐに判ってしまう様子だった。元来、何かをひらめくといった能力が自分には著しく欠けているきらいがある。そう思いながら男は嬉しそうに話す女の説明を聞いていた。

 番組を見終えると、男は女と一度交わった。

 ベッドでぼんやりしていると、隣でスマートホンの画面を見ていた女が、

「今から流星群を見に行こう!今日見られるなんて知らなかった」

と言った。薄暗い部屋の中、画面の光に照らされた女の顔は青白く、それでいてはつらつとして見えた。

 男はわずかに疲労を感じてはいたが、日ごろ女のこうした思いつきに従うことが嫌いではなかった。

 布団から脱皮した二人はそれぞれ厚手のコートを着込んだ。

 

 走り始めると車内は暖かかった。街外れの峠道を越し、目的地への道のりを半分も過ぎた頃には、始め冷え切っていたハンドルも気にならなくなっていた。

 切り通しを抜け、突き当たった国道を北上し、橋の東詰で左へ折れる。

 この橋は晴れた昼間であれば、北アルプスを真正面に臨みながら犀川を渡り安曇野の田園へ一気に下っていくという道だ。もちろん深夜ではそのような景色は叶わず、代わりに街路灯の無数のオレンジが闇中にぼんやり立ち並んでいるばかりだった。カーブに沿ってくねる淡い光の列に、男は何か艶かしさのようなものを感じた。夜、一人で高速道路を走ると似たような気持ちになることを思い出していた。

 ろうそくみたいで幻想的ね、と女は言った。

 田園地帯を突っ切ると、道は高瀬川沿いにやはり北へと進路を変える。先ほどとは違い一直線のこの道には街路灯はほとんどなく、自分のヘッドライトがないと先の様子が掴めないほど闇が濃い。心細く感じたのか、女の口数は自然と増えた。

 女は哲学的な話題を好んだ。

 最近の関心事は「絶対無」というものについてであるらしく女は一通りの解説をしてくれたが、その講義は男にとって解ったような解らないようなぼんやりとした印象だった。

曰く、われわれ人はいろいろな側面(”述語”と表現するらしい)が寄せ集まった実体を欠いた主語の一つであり、それら全ての”述語”を内包した無限大の述語の空間—それこそが”絶対無の場所”らしい—を体験することができれば、人は自分の真の在り方を理解だか自覚だかできるというのだ。

「どう思う?」

 説明し終わると、女はひどくざっくりとした問いを向けた。

「少し宗教っぽいのはともかく、もっともらしいような気もするし、当たり前のことを難しく言っているだけのような気もする」

「ほうほう、それで?」

「でも、もちろん僕にも自分の真の在り方というものが解っていない以上、その境地に至るためにいろいろなことを見知ることが必要だというのはなんとなく同意できるよ」

「なんだか、すごく簡単にまとめたわね。自己啓発本みたいでそれはそれで判りやすいのだけど」

 納得したのかどうか判らなかったが、女はしばらく黙り込んだ。

 男は、そのような境地に至ることが重要なのかどうかを疑問に感じていたが、女には言わなかった。

 絶対無の境地に至って「自分の真の在り方が解った」人は、はたして死にたくはならないのだろうか?

そして仮に死にたくなるのだとしたら、その感情の大元は僕が日頃世の中に感じているこの無力感とどこか違うのだろうか?

 

 無言で運転している間に、車は公園近くのコンビニに着いていた。男と女はそれぞれカイロと缶コーヒーを買った。

 

 コンビニを出て、県道から一本細い道に入る。山肌にそのまま道路を置きました、とでもいうべき急坂を一二分登ってゆくと案外すぐに公園の駐車場が見えてくる。

 安曇野の平野を挟んで北アルプスに面した山の斜面をそのまま利用した構造になっているこの公園は、昼間なら山景をカメラに収めるのにうってつけの場所でもあるし、夜は遮蔽物のない斜面にそのまま寝転んで一面の星空を見上げるのに適している。昔社会科で習った「扇状地」を思い起こせばいいだろうか、全体に芝生が張られた扇状地のその麓の部分に駐車場はあった。

 車を降りた男と女は、下界の景色を背になだらかな扇状地を登っていった。

なだらかとはいえ多少息が切れる程度の傾斜ではあったが、女は話を続けた。

「さっきの話じゃないけど、いろいろな知識を持っている人ってやっぱり尊敬する。今日のクイズ番組を見てると私もたくさん勉強しておいたらよかったのになあって思う。あなただってそうだけど、ああいう風になんでも聞かれたことを答えられると気持ちいいんだろうなって」

「知識を持っていることってそんなに重要かな」

 男は質問した。

「どうして。そんなの当たり前のことじゃないの?」

 運転の疲れもあったが、男はまとまった反論を試みることにした。

 

だいたい、相手の知らない知識を披露すると言う行為がそもそもあまり好きじゃないんだ/どうして/知っているというただそれだけで偉そうにしているように僕には思えるから/でも実際、自分の知らないことを知ってる人って偉いと思うし、尊敬してしまうのだけど/そんなことはないし、尊敬するようなことでもないよ/どうして/実際のところ、調べてわからないことなんてそうそうないだろう/それはそうだけど/例えばさっきのクイズ番組に出てきた知識を得るために僕がかけた一定の時間、君は確実に何か別のことをしていたはずだ/話が見えないのだけれど/僕と君とは1歳差だが、判り易くそれを無視していいなら僕たちは今までにおおむね同じだけの時間を過ごしてきたということになる/時間は全ての人に平等に流れる/その通り、そして僕が知識を得るのに用いた時間、君は何か君にとって意味のある別のことをしていたと見て基本的に差し支えはない/時間の使い方が違うだけだと言いたいのね/そうだ、そしてこれは一般にも同じことが言える/つまり/時間の使い方の違いが今の一瞬自分に有利に働いただけのことを、それが偉い偉くないという議論に結びつけてしまうのは、土台が相手に対する敬意を欠いていると言わざるを得ない/敬意の欠如/結局のところ、知識の多寡に重きを置くという考え方それ自体が、単純に自分を認めて欲しいという欲望の発露に過ぎないように感じる/あなたらしい考え方だね/そうかな/いつも通り、理解はできたけど、納得がまだ追いついていないもの

 

 芝生の張られた扇状地の一番上近くまで登り切ると、二人は今まで背を向けていた景色を振り返って腰を下ろした。

 夜景とまではいかないものの、眼下の平野を通る道路にまばらにある街路灯と遠くの信号機の光に彩られた暗闇は、それ自体が一種の星空のようにも思えた。たまに通る乗用車のテールライトがやけに目についた。

なんとなくそれまで見ないようにしていた頭上に目をやると、当然のように多くの星々が光っていた。都会の空ではまずありえない量の星にも近頃はそこまでの驚きを感じなくなっていた。

 そのまま無言で星空を眺めていたが、流星群の気配はなかった。

 

 何分経ったか判らなくなってきた頃、女が口を開いた。

 でもね、私の知らないことを色々知っているあなたは、本当に素敵だと思うよ。女は言った。

 思わず男は女の方を向いた。女は男の顔をじっと見ていた。

 そういうことではないのだ。

 男は無言のまま憤った。先ほどの話を聞いた上でどうして女がそのようなことを言うのか男には理解できなかったし、もどかしくもあった。だが同時に、女が事の本質を理解していないことに安心している自分にも気付いていた。

 絶対無の場所というものが本当にあったとしても、そこでも女はやはり同じようなことを言うのだろうなという気がした。

 

 結局のところ、流星は流れない様子だった。